やる気ない、遣る瀬ない


Bonjour!ノタキラです。

今日は、コロナ禍のやる気のない時でも、客観的に自分の状態を眺めるために書いた文章です。ノタキラがいつもネガディブというわけではないので、ご安心を!(何をだ?)

では、どうぞ!

「やる気ない、遣る瀬ない」

世界がこの深淵に満ちた時、舞い落ちる奇跡は徒労でしかない。無駄に過ごす日常、その日常に煌めきがあるのかさえ、分からず途方に暮れる。

いつからだろう、この世界が輝きに溢れたものではない、単なる惰性の連続にしか過ぎないと感じるようになったのは。神がいるなら、それもまたよかろう。何にだってすがりたくなる気持ちは分からないでもない。ただ、僕は今、神を必要としていない。ある種の盲目にはとても興味があり、心惹かれる。

やり場のない想いくだらない妄想。いや、いま妄想なんて高尚なものなんて、できていない。それを自覚しているのだから、嫌なもんだ。

ただ、時間が過ぎるのを眺めている。時間が自分から隔てられた異質なものに映る。時計を確かめるのは、やめにしよう。時間なんて時計を見なくても流れているもんなんだ

この瞬間も時は流れる。流される自分。支配できない時間。

無駄な時間なんてない。無駄な存在の自分がいるだけだ。限られた語彙と限られた考え。言葉で遊んでいるつもりで、ただ同じ場所をグルグルと回っている。ダンスをしたくてもし始められないもどかしさ。その営みに意味を見つけ出そうとする不器用な努力。

いつだって、僕はそうだったんだ。一心不乱に努力することが美徳であり、心地よいと感じていたあの頃が懐かしい。陽があたる場所を求め、目指し、そこに行こうとただ行動を積み重ねてきた。終わりの見えない戦い。戦いにいること自体に価値があると錯覚していたきらいもある。

ああ、見えないことこそが幸福だったんではないか。過去のあの幸せをもう一度味わいたいという無理難題。過ぎたことは、美しく見える。物事は、没入するか客観的に捉えることによってしか経験できない。

比喩のよいところは、その事象とは構造は似ているが、もともと違いのあるものなんだよという言い訳が前提となって作用していることにある。そもそも、いいたいこととはズレているんだから、文句は言わないでくれよ。俺は親切にも他の観点から物事を説明しようとしているんだ。

エクスキューズは織り込み済みだ、センキュー。

くだらない事象にくだらない装飾をつける。それって、素敵だろ?違うか?センキュー。

いま、語ろうとしていることの全容なんて全てを語らないと見えてこないんだよ。

英語は、結論から述べるなんていうけど、それって結局、その場で考えたことではなく、過去に考えたことをリピートしているだけだろ。普段から考えろと英語は、言っている。その場で考えるな、時間の無駄だ。とても資本主義的だ。客体的合理主義。ある種、事前の準備を求める、他人想いの協調言語

そういった意味では、結論を最後にもってくる日本語は、思考の旅へ共にいざなう、共同言語なのかもしれない。だから、旅のクオリティ次第では、いらいらすることもある。時間を返せと。この時間をもっと有意義に使えただろうと。

イングリッシュスピーカーは、レベルの低い日本人の話なんて聞きたくないんだ。レベルの高い日本人もその枠組みにアプリオリに分類されている。

センキュー、ジャパニーズ、ノーモアトーキング。

ひどく雨が頭の中に降っている。この雨が降り止むのが早いか、外の雨が降り止むのが早いか。どっちだっていい。降り止まない雨はない。雨という言葉の中では、いつだって雨が降っているのだから。

だいぶ、ネガティヴな話の運びとなっている。やる気を出したくて書き始めた文がいつの間にか、くだらない考えを打ち付ける作業に変わっている。

こんな文を読んで、楽しいとか役に立ったなんて思う人は、よほどの暇人か、生活が煮詰まってしまった自分なのだろう。

ぐちゃぐちゃの頭の中を、さらにミキサーでかき混ぜる作業。もともとの素材が何だったのかなんて興味はない。

結果こそが大事なのだ、日本的倒錯資本主義。センキュー。

独り文を綴ることで得られる快感は、とりわけ充実している。ゴミから発せられたガスが充実している。くさい。

「やる気ない、遣る瀬ない」は、そんな感じ。

fin.

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